昭和42年10月31日 夜の御理解
【入力者: 末永 満】
人間の知恵、力というもののまぁ偉大なというか巨大なというかまぁ、様々なことなしとげるとういことができるんですけれども。そのそれが、必ずしも幸せにはつながらないということです。
例えば、チャイナで万里の長城というものがありますね。何百、永遠、どれだけそれは私ははっきりは知りませんけれども。あのチャイナの自分の国を万里の長城で取り囲んだんですね。もうそれこそ国の勢力をかけて、それを上げてあの万里の長城が出来上がったという。
もう例えば敵からせ責められるということがない。もう責めてきよってあの万里の長城を越してくることはできない。というように完璧な、いわば、その城を長々と築いたんですけれども。
もうそれが出来終わる頃に内側から逃げてしまったんです。成る程外敵は責めるかもしれんけども、内の時は責めなかったんですね。そしてそれが、(?)です。いわゆる、なんにもならないものになってしまったんです。
たいへんなことだったと思うんですね、あの時代に、万里の長城を築くということ。いわゆる、権力と人間の知恵、力をもっていわば、作り上げたもの。私共あの、これこれの財産を作っておく、(?)とかこんな家を作ったりしとけばとか、とてもそれはもうほんとに頼りのないことなんです実はをいうたら。
それだけその私共がそういう人知とか人力のよらずに神様の知恵をもって、神様のお働きをもって、いうなら、お徳をもってことが成就していく(?)。こげんならば、私は完璧だとこう思うんですね。そのお徳を落とさない限り、そのお徳を失わない限り完璧なのです。
そこでそのお互いが自分の小さい考えといったようなものを捨て切ってしまう。これは私がこうやって神様にいろいろお指図を頂くようになり、神様から一々それに対してお言葉を頂けれるようにならせて頂いて、もう以上に近くなりますですか。
私はもうほんとにあの立つでもさがんでも、皆気付きはしませんけれど、例えば、ただ今からべんじょうにやらせて頂きます。ただ今からお風呂にやらせて頂きます。これは御神意を頂いてから、神様、例えばお風呂に入らせて頂きますというても、待てと仰りゃ待たせてもうら。行けと仰りゃ、行くと。
さー、その行けと仰るから行ったからならお風呂がちょうどいいとか誰も入ってなかったそんなことじゃないです。そんなことは問題じゃないのです。神様のお示し御神意のままに動くというだけのことなんですね。
それで神様のおかげを受けてきたんですよ。私はもうです、もう(ねっとっても体を動かします)。今日も私風邪具合が悪いから夕方から休んで、久富先生に肩をもんでもらった。出、お風呂が沸いてきたこと、沸いたことを知らせてもらいましたから、もう二日入ってないから入りたい。
けれどもまた、たいてはむけがりしてお伝えでのことがあっちゃからと思ってからそのお風呂に出してもらった。お風呂に入らせて頂きたいと思いますがとこういうわけなんです。そしたら中々お言葉頂かなかった。
また(?)頂いたらね、これからは日常茶飯事のこと、いうなら小さいこと、ね、浅いこと。まぁいうなら、ちょっとしたことまでに神を使うのこう仰る。お前が思ったことがそのまま神の働き。お前がすることがそのまま神のがすること同じことじゃと。
これはと、例えばそのいろんないうなら日常茶飯事のこと。そんな小さいことまでも、もうお伺うなということ。自分がお風呂に入りたいと思うなら入れ。便所に行きたいなら行け。起きろうと思ったらその時が神様が起きれと仰る時だから起きれとこういうわけなんです。
それで間違いない。けれども私共の心が乱れておる時がある、汚れておるがある。は、こんなことでお伺いしてもという時がある。だから、いうなら腹が、腹の立っておる時ね、心が乱れておる時。
そういう時には、困ったことだなとこう。ところがね腹立ちの中からでも神の心(?)。これは私の信心の20年間なら20年間の信心の、今日は一つの(けいき)ですね。これは生まれた私としては、今日という日は記念しなければならない日なんです。
今日から私が思ったことがもう神様が思うて下さったこと。私がしていることがもう神様からお指図してさして頂いていると同じこと。ですから私もまたそのお伺いしつけたもんですからね。それをただ今(?)長い間のです、さー下がらせて頂きます、入れち頂きますと、(?)ご無礼しようと思うわけです。
けどまぁこれはあのお伺いする。こういうことまで(?)と思って、まぁ自分の心の動きなのに行動させてもらった。そういういわばもう、そういうけいここれからさせてもらう。
変わってみて皆さんがお伺いの精進いくということは、これは捨ててはいけんだと思うんですよ。なぜって、私と皆さんがまだどこかが違うところがある。これはどういうことかというとですね、まぁ、極端にいうと、私の心の中にこのいわゆる、我情我欲をはなれて、真の道をしれよとこう。
我が身は神徳の中に生かされてある喜びというようなものがです、皆さんが本当に頂けれるようにならなければだめです。まだ皆さんに我情がある、我欲がある。(?)それは自分のどんなよい考えであっても、どんなよい知恵であっても、それこそ万里の長城を築かせて頂くような実力をよしできても、どれはだめだということ。
そういう実力に任せてです、そういう例えば権力なら権力、権力なら権力に任せてそういうことは(?)ということ。私共の心が和賀心神に向こうていくのを信心というのじゃと仰るように。
今日ちょうどその夕方なおしてもらいよる時に、自動車の整理しておりますという人が晩にみえた。だからおじちゃま自動車いらんから断っときなさいと申しましたら、いえ、お商売をぬきにしてこの親先生という方にお会いしたいって。
そんならここへ通して下さいというて、久富先生から(ねながら)してもらいよるところを通ってもらった。後でも(?)私はもんでもらいながら横になりながらまぁいろいろ話させて頂くんです。
それはまぁどこかでいろいろ聞いてきたんですよね。まぁ、合楽の先生は生神様といったようなこと聞いてきたんです。ところが生神様のような方いたちいうてから(?)。
私はその生神様というのはその、生神というのはどういうようなですかとこういうわけなんである。だからもちろんそれは生神というのは、教祖の神様御一人であって、私共が生神になれるなんてということは分からん。
その生神とてもです、ただ普通でいう生き仏様とか生神様とかというあれとは違ってね、生神とはここに神が生まれるということであって、瞬間的には誰でも生神になれるかもしれんけれども、四六時中ここの中に生神の働きというような、生神の徳というようなものをそれは金光大神まではいくらもなっておられる方がございます。
(?)見えます。二人、金光大神の御神徳を受けておられます。その分の徳を受けられた方も、もう神という言葉を使ってはならないじせいになりましたから、じゃございませんけれども、例えば、甘木の初代なんかでも金光大神のお徳を受けておられる。
亡くなられた時には受けられたということでございます。ですからその後においての金光大神は沢山おられるに違いにございません。けれども生神、神より上になるとは思うなと仰る。神より上になるということいけないです。
教祖の神様も、のようなことはもうこれは当てにも先にもできることじゃないです。何千年何万年の間天地の親神様が人間氏子を見ていみる。こげんような氏子をまだかって見たことがなかったと仰っておられますもんね。
けれども教祖は、ここまでは皆も信心を、修行をさしてもらやおかげが受けられるぞと仰っておられます。ね。生神とはここに神が生まれるということであってのこう仰る。というような説明をさせて頂いたんですけれどもね。
そういう意味であの、例えば、何かこう何というすかね、まっぽぎさんじゃなかったですかね。どっか(?)からあっちの方にまっぽぎさんちいうごたる。もう参ってくると、もうその、途中で考えてきよったことまで特別当てらっしゃるですね。
だからそれとは違う。だから私の場合はどこまでも、天地とのつながり、天地がバック。これは天地がいつも私のために働いとって下さるだなと、日々感じれるようなおかげを頂いた(?)が我が身は神徳の中に生かされてあるということなんです。ね。
我が身は神徳の中に生かされてあるというのは、天地が私のために自由自在に動いておって下さるだというような実感がここに伴うてくるようなおかげを頂くためにですね、私日々信心のけいこさせて頂くのでございます。
今、御記念前に久富邦雄さんが参ってきてから、明日奥さんが自動車の免許取りに行くわけですね、試験に行くわけです。コースが五つある。そこで内々で邦雄さんは三コース(?)。(?)お父さんに思うたら、お父さんはそれは二コースだよとこういう。
それをその家内が(?)申しました。親先生にお伺いしてきよる、明日は何コースじゃろうかというわけなんですね。それは久富繁雄さん、いわゆる、お父さんの信心を神様が信じてござりゃ、おそらく繁雄さんの言われる通りなるでしょう。
けれどもそういうようなことが二コースなら二コースなっただけでいけんのでしょうが。まぁ、二台としてはできないけんのでしょうが。何コースというのでしょうが。だからそういうことを例えば、お伺うたらするというような信心をもう椛目も初期の時代であった。
お伺いどんなことでもおがけ。なるほど教えて下さったけれども、いわゆる、段々椛目時代も五年祭をに大きな五年祭を仕える半年前に、四年半目に椛目の信心の大変な変わりがあった。十年祭にあった。ね。一五年祭にあった。まだ(?)。
けれども、なんかでもまぁこう合楽におかげを頂かせて頂くようになって、何ヶ月目に私が今日神様の、受けたような一つの変わり目、私の信心に変わり目がある。大変なだいたいいうたらここへんのところをその私の信心の移り変わりというものを、まぁ勉強する、教学したらもう素晴らしいことになってくるだろうとこう思う。
お互い信心を進めていく道すがらに大変な参考になることがあるだろうとこう思うのです。ね。いつも同じじゃない。それこそ、邦雄さんに申しました。もう合楽の信心はね、家内はそういうふうに聞いたち。そげんなことが分かたっちゃ何になるかと。
問題はおかげを頂くこと、お願いをするでよかろうがと。ね。本当にお前がおかげを頂きたいと思うならば、本気で神様におすがりする気になれ。一事ぐらい修行させてもらえ、一事ぐらい改まらせて頂け。
神様が喜び頂けるようなあり方にならせて頂きゃ、おかげを受けることは間違いはない。そのおかげとても、できるとかできないとかということがおかげじゃないぞと。いよいよ信心が大きくなってきよるですね。
もう合楽の信心はそんな信心じゃない。そういうことを家内に今、(?)。親先生何か(?)。はーしたっちゃちょうど私が言うた通りなった。ほー、先生の仰ることは間違いはないねということだけがもう信心でありよるになった、もし間違うたら金光様の信心までも合楽の信心までも、もう信心をしなくなってくるでしょう。
それで邦雄さん後からあんたが導いていくという非常(?)。そげんところから信心を導いていくことまで。信心とはもう本心の玉を磨く以外にはない。信心とは日々の改まり以外にはない。
本気で修行させて頂いて、限りなく美しゅうなっていく以外にはないというところから教えていかなきゃ。なぜって(?)それに一家が信心しよるじゃないですか。だから、さー、右ち仰った場合左ち仰った場合、ほら当たろうがね。
やっぱ、椛目先生生神様じゃろうかといったようなことではです、ね、もういけないということである。確かにおかげを頂いてまいりますとですね、例えば、なら久富繁雄さんが御神意をお伺いなりに、それは二番とこう例えば言われてもです、もう神様が久富繁雄の言うこと通り働いて下さるです。繁雄さんが神様の御信心さえできていきゃ。
お伺い(?)。ね。ただ今は繁雄さんあんたの場合はなんかは、私の(?)ないですから、お伺いをされて動かれることは有り難いことなんですね。けれどもそれを、なら一人こう、あー、という時代がもう過ぎたという感じなんです。
けれども、お伺いせんでもお母さんは仰ったこともございますよね。これはまた別ですよね。教祖のお伺いをするそのことがだいたいはもう間違いの道を歩いてさえいきょればいい。
しかも今日は腹が立っとるけん、乱れておるからもうお伺いはできまいというような時であってもです、その腹立ちはもうそのまま神の腹立ちと頂いていいのです。私の場合はそういうふうに言うて下さるんです、神様。ね。
例えば腹が立っておろうが(?)考えておろうが。その中に神が働く。ということは神様が腹立ててござるんだな、あるいわ、さみしい思いしとる神様がさみしい思いしてござるんだなと、私は思ってよいことなんです。
そこで私は右行きたいと思うなら右に行く、左に行きたいと思ったら左に行けばそのまま神様が働いて下さるというような今日はお伝えを受けた。ですから、皆が目指すところはです、やはりそこんところなかにゃいかないと思うんですね。
自分が思いよることがもう神様の思い。それが自分には我情我欲がって、我が身は神徳の中に生かされてあるところの喜びも、天地が私のためにいつも働いておって下さるという確信がなきゃずには、それは言えませんことであり、また思いませんことでございますよね。
いわゆる、凡夫我というか、凡夫我というたらたいへんおかしいですけれども、いわゆる我情我欲の私だということ。我情我欲の中から生まれてくるものは、大したものが生まれてくるはずがないのです。
ここへんのところをですね、皆さんが一生懸命一つけいこなさる。ですから皆さんが日々自分で自分のことぐらいはお伺えれるようにもならなければいけません。ね。みしのぎのできれる信心と仰る。
けれども、もうそれだけでも例えば、なら今日はもう簡単なことぐらいはお伺えるなとこう仰っとる。ね。もしく十年二十年先にひょっとするとです、どういう重大な時であってもお伺うなと仰るようになってくるかもしれん。それは分からん。
どういう重大なことであっても、私が右左といや御神意を伺んでも、その通りが神様の御神意であるといった(?)私の信心が進んじゃるでなっていけることであろうと私は思うのです。
そこでそのやはり私の周辺に御用頂いておる方達なんですね。私がご飯食ぶると(?)。あら今食べるのとじゃない、家内がいつもいいます。食べ過ぎちゃならん。そういう時でもです、はー、神様がたべ食べたいというてござると思うて、出す気になったらおかげなんですよ。
これは私もおかげを頂くようなそれを頂く方もおかげを頂くと私思うんです、思うんですこれから。そこにがですね、これは私の周囲におかげ頂くこと、特にそこんところを一つ心して下さい。
私はまだそこんところ今からけいこするわけですからまぁ、ぎごちないことであろうとこう思いますけれどもですね、それが私共なった時にはです、確かにそういうおかげにもなってくるだろうこう思うんですね。
ただ今も私はここへ座らせて頂いれから私がいわば思ったこと、しきりにだいぜんじから参ってきます、緒方さんのことが気になる。緒方さんが参ってきたかと私が言う。いいえ、今日は弟さんがお届に来ましただけでございます。
ああそう、というて電話がかかった。(?)尋ねておるところの緒方さんから電話がかかってきた。ね。そういうわけなんです。私のここの神様が(?)。もうここに返事がきちゃる。私がお伺いをしてから(?)末永さん(?)ね。
もうほんとに聞いたことが終わらないうちにもう返事がかかってきた。ほー、成る程私が思ったことが私が思ったじゃなかとこう思うのわけでございます。もちろんこれはたいへんな難儀な問題をお取次ぎしてございましたが。
おかげを頂きましてね、そのいうなら尋ねみるとだったけどね。神様は心配いらんと仰ってござるだけれども、まぁ心配でたまらんのですよね。ところが、そのなぜ心配だったかというとその、たいへんなお金沢山持っちゃったですんね。
そして、毎日(?)心配なるんです。ところが、やっぱ時々事情あったんでございましょうね。東京から銀行当てに今日金が送金が来たという知らせがただ今ございましたとこういう。ですからそのことを先のことお伺う、おかげにしますから、もう先のことはいらん。
自分で東京電話で行きたいというから、そげな必要はなかと私は言うた。ただ安心ができたということだけは有り難い。銀行から通知があった。そういうなことがです、例えば私祈りの中にそういう働きがあっておって、ね、いや私は私祈りじゃない金光大神の祈りじゃです。
そういう働きなって金光大神が思うて下さったこと。天地の親神様神なさったことが私がいわば、緒方さんは、とこういうことになる。そこにはもう電話通して、もうここから返事がこうでございますという返事をして下さっておるような気がするじゃないですか。
そういうようなですね、おかげはなら誰でも受けられるということです。ね。そこで私共がですね、本気で我情が取ろう我欲を去ろう、そして成る程我身は神徳の中にあるんだなという実感の頂けれる日々を過ごさせて頂こうという願い。そういう願いに立った信心。
右じゃろうか左じゃろうかとこう分かるようなことが信心と思うたりね。病気なら治さりゃ神じゃないということを一つ分らしてもろうて、ね、いわゆる、心のだけ神じゃと仰る本当に本心の玉を磨くことに精進さえしとけばです、災難もよけられるであろう、ね、おかげも限りなく頂けていく道が開けてくるのですからね。
金光様の御信心はそうなんです。それこそ、人知人力をもってして、もうこれは完璧とまで思われるような例えば財産を築きましてもです、それはどこからがそれこそ愛のいっけつからでも込めてくる可能性がもう十分にあることなんですね。
万里の長城を築かれた。敵にはもうすでに(?)。内からそのあってもなくてもいわゆる庭の長物になってしまった。というように人間の知恵とか力というのは計らないものだということを一つ本気で悟って、ね。
人知人力、人知人力によってこの世を過ごさせて頂こう、この世を送らせて頂こうというそういう願いが私は信心の願いでなかなけれならんと思うんですよね。皆さん誰でも本当になれるんです。教祖の神様がここまでは誰でもなれるとこう仰っておられる。
私はならここまでは私自信が体験して、皆さんにこう言ってわけです、ね。ですからほんとにその願いに立って一つ信心させてもらえばなと思うんですね。どうぞ。